你好,以下試譯,請參考看看
西の内、地柾(じまさ)などの和紙に、さまざまな模様を木版で色刷りしたもの。
在名為西之內、地柾等種類的和紙上,以木版印上各式各樣的彩色圖案。
手芸材料として小箱に張ったり、紙人形の衣装などに用いられる。江戸時代、奉書に肉筆で模様を描き、定家(ていか)好みなどとよんだものが京都にあった。
作為手工藝材料包裹在小箱子外面,或是拿來做紙人偶的衣服。
在江戶時代的京都,有在奉書紙(註:一種高級的日本白紙)上以毛筆畫上圖案,叫做定家好み之類的讀物。
それが模様紙のおこりといわれる。
傳說這就是有花樣的和紙的由來。
千代紙は寛政(かんせい)年間(1789~1801)以後錦絵(にしきえ)の興隆に伴って生まれ、江戸の浮世絵師が主として描いた。
千代紙是在寬正年間(1789~1801)後伴隨著錦繪的興盛而誕生,主要都是江戶的浮世繪師在畫。
図柄に松竹梅、宝尽くしなどめでたいものを多く扱ったので千代紙の名がついたという。
據說多是松竹梅等吉祥象徵的圖案,於是便取名作千代紙。
(註:不好意思我不知道宝尽くし怎麼翻比較確切,你可以參考這個網頁的圖: http://sorakara11.blogspot.tw/2011/10/blog-post_26.html
總之也是一些吉祥的圖案)
『大江俊矩(としのり)記』に、「文化(ぶんか)一二年(1815)六月四日、千代紙百枚」とあり、当時この名でよばれたことがわかる。一説には、千代田城の大奥の女性たちが細工紙として使用したので名づけられたともいわれ、奥女中の手芸用品として発達した。
「大江俊矩」裡記載,「文化12年(1815年)六月四日,千代紙百張」可得知當時就叫這個名字了。也有一種說法是,千代城內的大奧的女性們將其拿來當作手工藝用的紙,所以才叫千代紙,並因此發展開來。
また、松平定信(さだのぶ)(楽翁)が、画師谷文晁(たにぶんちよう)に描かせた「楽翁好み」などの典雅な作品もある。
此外也有松平定信(楽翁)叫畫師谷文晁畫的「楽翁好み」之類的典雅作品。
江戸末期には広く大衆化されて、図柄も麻の葉、卍(まんじ)つなぎ、鹿(か)の子(こ)などの衣装模様や、芝居、おもちゃ絵など絵草紙の一種として種類も増えた。
在江戶時代末期廣為大眾化,也出現了像麻之葉、萬字組合、鹿之子等原本印衣服上的圖樣,以及作為歌舞伎繪、玩具繪等繪草紙的一種。
(註:上述的圖樣及專有名詞您可以上網找來看會更清楚,我這裡就不多加解釋了)
また、女児のもてあそび物となるにしたがい、紙質も三文千代紙とよばれる安価なものが市販され、折り紙や姉様人形の材料となった。明治以降は洋紙を用いるものもある。
再者,因應女孩子手邊把玩的小物所需,市面上也有販賣比較便宜的、叫三文千代紙的紙,來作為折紙或新娘紙人偶的材料。
明治以後也有使用洋紙的。
參考資料
自己
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